服部良一トリビュートの『ラッパと娘』が案の定すばらしい。松浦さんの良さ、勝手にブルース感と呼んでいる要素がいかんなく発揮されているように思います。しつこいようですが村田陽一と組んだのも、ジャニスの『Move Over』もそうでした。おそらく松浦さん自身が思う自分らしさでないにも関わらず、いえ、だからこそなのか外部仕事ではイチャモンの付けどころがなく、不肖、なんの役にも立たぬキモヲタながら今後も賛辞を惜しまない所存であります。余計なお世話ですかそうですか。身内では持ちえない冷徹な視点ゆえ、自ずと着眼点が違ってくるのでしょうかねえ。


一方で『ダブルレインボウ』は、このなんとも言えぬ65点っぽさが松浦さんらしさなのかなあと感慨深くもあり、好きなことに変わりはありません。しかしながら、外部でのパフォーマンスを知るだけに、彼女のポテンシャルはこんなもんじゃないよなあ、なんかチグハグな感じがするんだよなあ、という名状しがたいもどかしさも同時に残ってしまいます。当アルバムに散見される悩ましいニューミュージックの香り、遡れば森高千里さんの最後期のアルバムも趣味はいいのかもしれませんがまあ同様でしたし、そして松浦さん以外にも間隙を縫うようにして時折顔をのぞかせる頑迷なまでの保守性から勝手に想像するに、これはハロプロというよりは音楽事務所であるアップフロント自体の伝統的な姿勢のように思えてきました。ゆえに、音楽性の違いがあろうとなかろうと、ハロプロから脱退したとしても同事務所に属する以上、音楽性の自由を担保することは至難業で、結局は網に絡めとられるだけのような気がしてなりません。しかも猛烈な善意によって。で、傍目からですが、最近の後藤さんは充実していたように思うわけです。でも、白紙状態や模索段階であればなおさら、低きに流れると言いますか慣れた手法を頼るに違いなく、『オリビアを聴きながら』で衝撃の復活!!という鼻白む事態になってしまったとしても自分はさほど驚かないのです。目下やりたい放題中の鈴木亜美さんとは環境が違います。


話が脱線しました。世知辛いよね。
あまり加工することなく素のままの歌声を乗せてみたい。屈託のないメロディと詞を歌ってみたい。松浦さんの意図はわかります。アルバムの中頃に据えた『砂を噛むように…NAMIDA』に、いわば箸休めの役割を課していることから、自らの歌声に自覚的なのも推測できます。だがしかし、事務所の思惑やら松浦さんの思惑やらが前面に出たことで、以前よりもさらにバックトラックとの乖離が目立つようになった気がします。『Naked Songs』のような音であればまた印象は異なったはずですが、折り目正しい音と親和性が高いとはあまり思えません。
アクの強い歌声を持つ椎名林檎UAが決して薄味を施さず、異形であることを意識的に選択しているのと同じで、松浦さんの歌声をそのままに生かそうとすれば、また濃い味付けに接近せざるをえないのだろうなあ。同じことをすべきだと言いたいわけではありません。彼女たちは、別にひねくれているわけでも奇をてらっているわけでもなく、結果として自然にそうなっただけだと思いますから。ともあれ、もし松浦さんが「趣味のいい」歌い手になりたいと思っていたとしても、その切なる願いは叶わない気がします。


かと思えば、過日しめやかに営まれたと巷間伝えられるアルバム発表イベントは、これまで長々と書いてきたのは何だったのかと憤慨してしまうほど、それはそれは完璧なものでした。やっぱ松浦さんに合うのはソウルだよフィリーソウル、なぞとヌルく締めようかと思っていた矢先に覆されたこの被虐の愉悦をどう言い表せばいいでしょうか。某所からくすねてきた音源を盗み聴いた限りですが、隅々まで神経を行き届かせたかの如き歌声と、ギターとキーボードのみによるシンプルな演奏の絡み具合は、もうすばらしすぎるの一言です。しかもやたら音がいい。なんじゃこりゃああああああ、なんの陰謀か知らぬが抽選で落とした奴は生かしておけん。即座に家宝と認定し、末代まで語り継がんと誓った次第であります。迷惑ですかそうですか。殺意すら芽生えさせるこの100点満点のパフォーマンスが、CDになると65点になってしまうのは一体全体どういうわけでしょうか。ああ悩ましい。