安倍なつみのライブを一緒に観に行った友人と酒を呑みつつ、もう一度ハロプロ関連のライブを観に行きたいかと問うたところ、確かにみんあ可愛いかったけど自分にとって得るものがないから一度で十分、と言われてしまいました。それは、安倍・中澤・保田という確かな存在はあったが、そこに音楽は存在しなかったという意味です。素晴らしかったROVOのライブを共に観た後であっただけに返す言葉がありませんでした。それだけではなく、妙に腑に落ちるところがあったのです。以前に安倍さんのライブの感想を述べたとき、「彼女らの歌声と存在感を前面に押し出すという観点からは申し分ないライブだったように思います」と、くどくどした留保をつけておいたのは、各ライブを併せ見た際にどこか引っかかるものがあった、いえ、何か足りないような気がしたからです。別に安倍さんがどうこうと言いたいわけではありません。思い入れ如何によって受け取り方が異なってくるのは、決してハロプロに限ったことではないのですから。しかし、これが後藤さんや松浦さんのライブであったとしても友人の返答は変わらなかったことでしょう。このことは単なる趣味趣向の相違として片付けられることなのでしょうか。たしかに彼は、マリリン・マンソントレント・レズナーをこよなく愛する何かと面倒くさい友人です。それに調子に乗ってこりん星(小倉優子談)に行きたいとのたまった時点でもはや信用度は絶無であるけれど、それでも彼が例外中の例外に属するとは思いません・・・たぶん。誰を指してそう呼ぶのか知らないけれど「一般人」とやらは想像以上に厳しいのです。


音楽の知・不知に関わらず、演者が歌手である以上、歌と演奏(演出も)は不可分であり、少なくとも自分にとっては両者が共存することは疑うべくもない常識でした。関心のない人からすれば酔狂としか思えない公演数、一ツアーで平均3回ほど松浦ライブに足を運んでいる自分なので、そのことに後悔はないとはいえ、多少は不感症に陥っている面はあるでしょう。けれども、上述した意固地な意識は初めから揺らいでいません。誤解を承知で言うと、力点を音楽に置くのであれば、カラオケライブでプロの歌手としての矜持を語られても反応に困るのです(嬉しくて泣きそうになったけど)。一部のハロプロライブは他の歌手のそれと比べて遜色はないのだから今まで以上に認知されて然るべきだとか、そうした意見もやはり疑問(誰と比較しているのか知らないが比較は無意味)。自分如きが言うのもアレですが、そんなものは要らぬ世話でしょう。


意味なく長いので、次回につづく。