ただいま友人宅におしかけてオリンピックを観戦しています。ビールがうまい。
例に漏れず、昨日あわてて買い込んだばかりのオリンピック関連の雑誌を片手に、にわか評論家をきどってテレビの前であれやこれやと申しては騒いでおります。鮮やかな一本勝ちをおさめた柔道は、まるでマンガのようでありました。北島選手もすごい。
試合が始まる直前、谷亮子選手の練習風景が放映されていました。それは、鬼気迫るといった凡庸な言葉しか思い浮かばないほど、素人目には異様に映るものでした。すごいものです。どうしても有力選手ばかりが注目されるのですが、どの選手も同等の尋常ならざるトレーニングを積んできたのかと想像すると、めまいを覚えそうになります。オリンピックの時にしか似非ナショナリズムを発揚しない自分の感傷に過ぎないとはわかっていても、やはり心のざわめきを抑えることができません。残念な結果に終わった競技も幾つかありましたけれど、どの選手もベストを出せればいいな、と月並みなことを思っている次第です。
人間ってすばらしい。


ただテレビを見ていて気になることがありました。「やってくれました」や「勝ってくれました」に類する発言です。今に始まったことではないのでしょうし、どうでもいいことなのですが、選手が結果を残したときにアナウンサーや解説者が発するその言葉はどうにかならないものですかね。果たしてそれが丁寧な言葉だとでも考えているのでしょうか。どうしても個人的に気になってしまいます。「やりました」や「勝ちました」のほうがいいのではないでしょうか。なんだか「テレビの前のあなたもそう思ってるでしょ」と感動を押し付けられているよう気がして興醒めします。むろん無意識の内に発しているに違いありませんが、こっちはこっちで勝手に感動するので、ほっといてくれと言いたくなるのです。別に間違ってはいないでしょうし、それにゲストの方が発言するにはそれほど気になりませんけれど、本職のアナウンサーに関しては違和感が残ってしまいます。努めて客観的であれ、などとは思いませんが、どうにかならないのでしょうか。我ながら、せせこましいことを気にしているとは思いますけれど。


それにしても、『愛情イッポン!』が不憫でなりません。例の如くプロ野球の中継が長引きましたので、メダルの獲得が濃厚である柔道の準決勝と時刻が被ることは避けられぬ事態となりました。ある程度までは製作者側も折込済みでしょうけれど、さすがに視聴率が心配になってきました。少しでオリンピックに関心がある者なら、ましてや抜群の強さを見せつけた谷・野村選手の試合なのですから、どう考えてもそちらを見るに違いありません。かく云う自分もリアルタイムでは見ませぬ。


毎回涙なくしてオリンピックを見られぬ自分でありますが、やはり今回も泣くのでしょう。
寝不足の日々はまだまだ続きます。