友人の家にお呼ばれして、さっきまで酒を呑み散らかしていました。
その友人はかつて世界中を旅したことがあるらしく、今もまとまった金ができると、いてもたってもいられなくなって取るものもとらず旅立ってしまうような人であります。しかも彼の彼女も同様で、現在は気ままな一人旅と称して南米を放浪中のこと。鬼の不在をこれ幸いとし、調子に乗って呑みすぎてしまいました。ひとたび眠りについてしまうと今日という日が破綻し、路頭に迷うことは必然なので仕方なく起きている次第です。


いつの日も、自分の知らぬ世界を知る人というのは輝いて見えるものです。そうした人達は得てして、普段はそのことを無下に表出することはありません。そのため、どんなに些細なことであっても、不意にその人のこだわりが垣間見えたとき僕は得をした気分になるのです。ここで損得勘定を持ち出すこと自体何とも貧乏くさいのですが、毎回あぁ得したなぁと思わざるをえません。
人見知りをする上に、人付き合いを苦手とする僕であります。ここで一期一会などと大げさな物言いをするつもりはありませんが、こうした自分の性質が変わりえぬことを知ってからは、人との出会いを大事にするよう心がけるようになりました。
ひとたび社会に出ると人付き合いに打算が含まれるようになり、学生時代のそれとは性質を異にするとはよく言われていることです。果たしてそうでしょうか。学生時代も、いやそれ以前からもさして変化はないように僕には思えるのです。


楽しければ楽しいほどに、宴の後に広がる闇は濃くなります。それは単なる人恋しさだけではありません。はたして自分は友人に何をしてあげられるだろかと考えるとき、何もないことに気づき愕然とするのです。与えられてばかりいる自分に対して嫌悪感すら覚えます。この時点で既に打算を多分に含んでおり、決してそればかりではないだろうとも思いながらも、そう考えざるをえないのです。こうした思考自体、下から見上げることに慣れすぎた負け犬根性以外の何物でもありません。
けれど、その発想を嫌っているわけではなく、むしろ自身で好んでいる部分もあるのです。他人を羨む感情は、裏返すと自己撞着に行き着くのではないでしょうか。
口に出して伝えることはありません。けれど、これまで偶然にして出会った全ての人たちに感謝しようと思うのです。何よりも、つまらなく卑小な自分自身を愛せるように。