なぜか高校時代の友人が泊まりにきていた。数年ぶりの再会ではあるが特に深い意味はない。夜露をしのぐ宿を提供したまでにすぎない。唐突にやってきたくせに、どうせ暇だったんだろだの安普請だのとうるさいんだよ。残念ながら全て当たりだ。
自分の知る彼の高校時代はこんな人だった。秘め事を打ち明けても一緒に悩んではくれない。決して気にかけていないわけではなく場合にもよるが大抵のことは、なんだそんなことか、と機転を利かせて一蹴し豪快に笑い飛ばす。いま考えると些細なことだけれど、ありがたく思った記憶がある。ついでに口も悪く、他意がないのを知ってはいても、それでも時々カチンとくるほどだ。また、よくわからない正義感に燃える、昔のジャンプの三大テーマ「友情・努力・勝利」なる恥ずかしい言葉が似つかわしい、絵に描いたような熱血漢でもあった。そうした所作の驚異的な作為のなさに呆れもしたが、同時に眩しく映ったものだった。自分とは真逆であるかもしれない。
はたして、彼は変わっていなかった。さすがに見てくれにはやや時の流れを感じはしたものの、あとは冷凍保存でもしていたかのように当時と一緒だった。さてその友人、当世で言う、できちゃった結婚をめでたく19歳で果たしている。田舎ゆえか、さほど珍しいことではないけれど、生まれてくる子供にとって甚だ失礼であるこの呼称はどうにかしたほうがいいと思う。当時から子煩悩であろうと皆から冗談めかして言われていたものだが、案の定というより、その予想を遥かに上回る親バカであった。どうせ愛娘のことを話したくてウズウズしているに違いないと会話の矛先を変えると、堰を切ったように口角泡を飛ばす勢いでしゃべりはじめる。しかも頼んでもいないのに、家族の写真満載のアルバムまで持参してきやがった。うぜー。妙に手馴れていたので誰彼となく吹聴して回っているのだろう、すぐに後悔したが時既に遅く、ゆえに延々と御高説を承る羽目と相成った。何くれと世話を焼きたがる、娘にとってはありがた迷惑な親父になることが容易に想像できて苦笑いする。己の命に代えても守りたい、また守らなければならない、そう思える存在がいることの幸福。カビのはえた大仰な物言いではあるけれど、実際に真顔で彼は口にしかねない。それとも、こっちは我が身で精一杯なのにおまえはすごいよ、などと言えば、やはり当時と同じように彼は笑い飛ばすのだろうか。
昨日、大事そうに小箱を抱えた友人を見送った。今日は愛娘の誕生日。教えてはくれなかったが、どうせ迷いに迷った挙句、自分と同じくらいにセンスのないプレゼントでも買ったのだろう。他人の幸せを願えるほど出来た人間じゃないけれど、喜んでくれるといいなとは本音で思う。すでに物心ついているとはいえ、でなきゃ悲惨すぎる。それでも万一空振りに終わったならば、今度はこっちが笑ってやるよ。おめでとう。