楽曲と歌声の乖離について何度か述べてきました。それがどこに起因しているのかはまだ自分でも判然としていません。それゆえに上手く言い表せず漠然としたままなのですが、松浦節の影響からか、最近のいくつかの楽曲では音源に歌声が溶け込まず、オケの上に乗っかっているだけのように感じられたのです。素材を最大限に生かすために音の修正を極力控えているのだろうと好意的に取ることもできますが、逆にポップスとして形に残すにはややお粗末であり、単に素材を持て余していただけとも捉えられます。『ずっと好きでいいですか』のC/Wである『夢』はその最たる例でしょう。おそらくは鮮度を優先しているに違いありません。しかしお世辞にも成功しているとは言いがたく、現在の方向性は支持するものの、その一方でどこか煮えきらぬものがあったのもまた確かです。少なくともCD音源においては、何物にも代えがたい最高の楽器であるはずの人の歌声が楽器として機能不全に陥っていたように自分には思えてならなかったのです。そうした諸々の疑問があって新年最初の更新(これ)でもやや悲観的な意見を述べました。


さて前置きが長くなりましたが、少し認識を改めねばならないかもしれません。ベストアルバムに収録されている『可能性の道 (2005 Version)』でひとつの可能性、ひとつのあるべき形が示されたような気がします。決して際立って上手いわけではない、けれども優しく強い、そして確かな意志を感じさせる歌声がある。愚にもつかぬカラオケ歌唱とは縁を切った松浦節と呼ぶべき歌がある。今さらながらそれを実感するに至りました。とは言っても、生声をそのまま提示しようとする或る種リスキーなスタンスにさしたる変化はなく、むろんそれは良いメロディあってのことなのですが、元来マイナスになりがちな息継ぎの音すらも松浦亜弥の一部であると高らかに宣言するかのような、ある種の開き直ったふてぶてしさと、相対する瑞々しさが同居しているように思えます。また、アドリブが混じっているのかどうかはわからないけれど、地味に難しいであろう半音を行き来するメロディの崩し方やファルセットの用い方も美味であり、歌声が楽器として十分に機能しているように思えます(もしや一発録り?)。しかしながら、濃いファンはいざ知らず、そうでない方にとっては違和感を覚えるに違いありません。されど、これこそが紛れもなく現在の松浦亜弥なのです。歌詞に登場する「地球は丸いと辞書にはあるけど実際に見たわけないんだからわかんないね」とは松浦亜弥の気質を過不足なく表現したものだと思うのですが、そうした意味からもベストアルバムの最後を飾るにふさわしく、それゆえにこれまで彼女が歩んできた軌跡そのものであると評しても過言ではない、自分にはそう感じられてなりません。これから彼女はどこへ向かうのでしょうか。一区切りつけたことを機に新たな地点を目指すのでしょうか。きっとそうでしょう。歌手・松浦亜弥の歩む道はやはり隘路であるような気がするけれども、だからといって応援だの支えるだのと差し出がましいことは申しますまい。背筋を伸ばし凛とした姿を、周囲に媚びることなく憎たらしいまでに自信に満ちた姿を、少しでも長く見ていたいと自分はただ願うばかりです。いよいよ宗教じみてまいりました。誰か助けてー。


ちなみにアレンジは河野伸から鈴木俊介に変更。ガットギター(?)・シンセストリングス・ベースというドラムを排したシンプルな編成が光ります。時にオルゴールを彷彿させるような残響を抑えた鈴木俊介のギターの音色や、子守唄のように優しく染み入るストリングスもさることながら、小松秀行の付かず離れずのベースが泣けます。ベースと共に歌声を聴けば味わいが増すこと請け合いです。それにしても露悪的とも思える派手さをそれと知って装うことの多い昨今のハロプロサウンドの中で、この人肌のような温もりを宿した歌心溢れる演奏は今や異質な部類に入るのではないでしょうか。『奇蹟の香りダンス。』における殺意を催すに十分なブヨブヨのシンセベースとはまさに対極の位置にありましょう。もちろんデモテープっぽいと感じられる向きもあるでしょうが、自分は滋味溢れるアレンジだと思います。まだまだハロプロも捨てたもんじゃない。ステキな楽曲、粋な演奏に感謝。


なお、既にご存知かとは思いますが、これらは楽器一つできぬ盲目ヲタのタワゴトにすぎませんので決して間に受けてはいけません。ましてや深く詮索するなどもってのほかです。ええ。